インド人の人口が今年世界一となることから考えること

国連の人口統計では、今年の半ばにインド人の人口は14.3億人程度になり、世界一となります。

1999年8月にインドの人口は10億人を突破しましたが、そのまま年1.6%の割合で増加し続けるなら、約40年後には、インドは中国を抜いて世界一人口の多い国になると予測されていました。

しかし、それよりもずっと早くその時が訪れることになります。

すでに、インドと中国で世界人口の3分の1以上を占めていますが、インド人の人口の増加の速さは、24年前の予測を遥かに凌ぐものです。

それで、ポジティブなこともネガティブなことも、予測というのはあくまで予測であって、その通りではない前提で備えることこそリスク管理の基本なのだと思います。

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SNS 「いいね」が「いいね」でなくなる時

「1日に3時間以上SNSを利用する子どもは、うつ病などの問題を抱えるリスクが倍増する」と警告されています。

SNSを1日に3時間超利用する子ども、心の病のリスク倍増…米報告書が警告 : 読売新聞

SNSは便利なものですが、使い方によっては心身の健康に悪影響を及ぼすかもしれません。

例えば一つの点として、誰かに認められたいという承認欲求を「いいね」で獲得しようとする時にそのような事態が生じ得ます。

その承認を自己を評価するものとして判断の根拠にしてしまうと危険です。

そもそもSNSでの個人的な評価に信頼性や権威などあるわけではありません。

それでも読み手の反応に一喜一憂してしまいます。

また一旦、ある時期高評価を獲得する経験をすると、それが少ない時に落ち込みます。

時には心無い言葉に傷つきます。

生活における便利なものには必ずと言って良いほどその程度に応じたリスクが内在しています。

航空機や自動車は社会生活上、誰もが承認する便利なものですが、人の命を奪う危険が生じます。

SNSも同じで、当初は予測できなかった危険が分かりはじめました。

「いいね」が「いいね」とは言えない状況に発展してしまいます。

AIと同じで、便利なものはどの場合でも使い方次第です。

上手にコントロールできる範囲で活用しましょう。

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私は騙されない、と思うことにリスクがあるのでは?

「私は騙されない」と誰もが思います。

でも騙される人が後を立ちません。

なぜなのか、それが分かれば何も苦労はしません。

思うに、「私は騙されない」と思っているそのことに、騙される原因が潜んでいるのではないかと思う節があります。

それで、強盗、性的暴行、ネット犯罪、個人情報の盗難など、その危険に繰り返し与えられる警告に対し、ぼんやりとした態度をとらないようにしたいものです。

だまされないで(特殊詐欺に注意) 警視庁

笑っていても心の痛むことがある

「笑っていても心の痛むことがある」と言われるとおり、人は問題を抱えていても苦しんでいる素振りさえ見せないことがあります。

外面は楽しそうでも、内面では不安や失意のために苦しんでいることがあるということです。

俳優や芸能人など、いつもダンディだったり、体を張ったリアクション芸を披露する様子をTVで見ていると、とても死を選びそうに思えませんが、突然の訃報となることがあります。

なぜ死を選ぶのでしょうか。

精神的な病である場合もあるかもしれません。

家族に問題が生じているのかもしれません。

対人関係に不和があるのかもしれません。

将来に不安があるからかもしれません。

希望が持てないからかもしれません。

それで人はたとえ笑ってはいても、心の奥底では大きな苦しみを抱えていることがあるものです。

自分の苦しみを話せる人の存在は本当に大切です。

「グッドバイ」 別れの言葉が出会いとなる時

“good-bye”という表現は別れ際に使います。

少し寂しい響きがあると感じる人もいるかもしれません。

しかし、“good-bye”は、「神があなたと共におられますように」(God be with you)という英語の現代的な短縮形で、別れ際、相手に神の祝福が臨むことを願う思いやりの気持ちの表れでした。

フランス語のアデュー、スペイン語のアディオスにも、同様の考えが含まれています。

ですからとても素敵な言葉です。

それで、あなたがこれからもこの言葉を使うのなら、「その神」とは一体誰のことなのか、考える切っ掛けとなります。

もしかしたら、“good-bye”という言葉が、「さようなら」どころか、人生で最も重要で素晴らしい「出会い」の切っ掛けになるかもしれません。

SNSで不幸になる人

SNSの利用頻度が高ければ高いほど、うつ病になりやすいという結果が出ています。

toyokeizai.net

 

その原因は、「自分以外の人たちは幸せで充実した人生を送っている」という、ゆがんだ認識が生じることにあります。

それは自分を他と比較することから生じますが、自分と他の人を比較することは否定されるべきものではありません。

社会におけるマナーも基本的には集団の中における自分と他の人との比較を基礎とした見方に根差すものなので、良い面もあります。

良い意味での他者との比較の視点がないなら、社会性に欠ける人となります。

しかし、自分の価値、生活の喜び、達成感などを他の人と比較すると、その結果はうぬぼれだったり、失意ということになってしまいます。

それで比較すべきことと、比較すべきでないことを、感情が生じる前にまず理性的に判断できる思考の型が重要です。

そうできれば多くの場合マイナスの感情が生じることを避けられます。

そういうトレーニングが出来る場があればいいですね。

尊厳と美意識から出ずるものは人の必需品

世の中はもので満ちあふれています。必需品に加え、生活をより便利にするもの、彩を添えるもがお金さえあれば簡単に買えるようになりました。

しかし、ものが増えるにしたがって問題も起きました。 

例えば、ものが増えたために廃棄物が増えました。たくさんの選択肢の中から選ぶストレスも生じました。管理に手間もかかります。 

それで、最近は出来るだけ所有するものをスリム化し、シンプルな生き方こそ最善であると考える人が増えています。

それを実践するためには、ものを購入する時それは欲しいものなのか、必要なものなのかをよく考えて購入します。

際限なく欲しいものを手に入れようとするのは、どんなにお金があってもさすがに節操がなく、愚かだとの結論に達しやすいものです。

一方、必要なものだけを手に入れることで満足しようと思う場合、最低限の貧しい生活がイメージされてしまうと、今の時代にそんなことは少しも美徳と映らない、との反発心も逆に生まれるものです。 

それで必要なものであれば購入し、単に欲しいからとの欲望に流されるまま手を出すべきではないという行動基準で生活する場合、肝心なのはその必要性の範囲はどこまでなのか、それを判断する価値基準の存在が重要であると思えます。

生活最低限の貧しいイメージから導かれる必要ではなく、尊厳や美意識の要素を加味した高次元な必要性も含めて判断できるなら、野に咲くユリの教訓をよく理解していることになります。

未来があるなら、過去から学ぶ意味がある

人が経験する事柄には成功や失敗など様々な事柄があります。 

大きな視点で言えば、歴史の教訓という言葉が使われる通り、ひと個人にも、自分の人生を振り返り教訓とすべきことがあるに違いありません。

成功であれ失敗であれ、そのどちらからも優れた教訓を得ることができます。

問題はそれが教訓となりうるかは、今後、それを活かす機会があるかどうかによって左右されます。

寿命の観点からみてもう将来が無いのなら、自分の人生で教訓を活かす時間をもつことすらできません。

それで「教訓」を活かす意味があるのはまだ時間がある人だけです。

そしてそれが出来るなら、その人には意味ある未来があることになるでしょう。

人生の終わりには、間に合うことと間に合わないことがあるのです。

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